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「歴史とは何か」という問い

「歴史とは何か」という問いを巡ってフランス語とドイツ語は興味深いコントラストを提供する。フランス語のhistoireは「歴史」という意味の他に「物語」という意味がある。他方、ドイツ語のgeshichteは「何が起きたのか」という事実経過のみを意味する語である。そこには「物語」という含意はない。

果たして歴史の中に物語を見ることができるのか?ネイティブに聞いてみたところ、英語のhistoryは独仏のいずれ寄りとも言えないニュートラルな語であるという。プラグマティズム・経験主義の伝統は、事実経過それ自体を重んじる学派に親和性がある。他方で、昨日のエントリーで紹介したブッシュの就任演説は、アメリカの歴史を「アメリカ人によるナショナルな物語」と見る意味において、histoire史観に立っているといえる。「人類のるつぼ」に代わるアメリカ社会のメタファーとして提示された「人類のオーケストラ」という表現も、「物語」史観との親近性を感じさせる。もとよりhistoriography(メタ歴史学)の分野はetymology(語源学)に従属しないことは当然である。

「物語」史観、進歩史観、目的論的解釈

歴史を物語として見る立場は我々の思考に広く浸透している。しかし、その意味するところが深く考えられることは稀である。仮に人類の歴史が物語であるとすれば、そこには個々のアクター(人間)の意思を超えた作者(超越者)の存在が想定されている。同様に、仮にアメリカの歴史が「人類のオーケストラ」であるとすれば、そこには作曲家と指揮者の存在が想定されている。単に出来事を時系列に従って並べただけでは物語は成立しない。物語にはプロットが必要である。ここでプロットとは出来事に「目的」と意味を与える筋立てのことである。

近代歴史学は「歴史は人類の努力によって進歩する」という進歩史観によって支えられてきた。進歩史観は「人類の進歩」という目的論的な「物語」に従って歴史を解釈する立場のことである。もちろん進歩史観は日本においても有力である。特に戦後歴史学は圧倒的なマルクス主義的唯物史観の影響の下、ヨーロッパ史を日本史に投影して「世界史の諸段階」を分析する進歩史観が幅を利かせてきた。しかし、進歩史観はつまるところ欧米中心史観であり、欧米社会を「人類の中の霊長類」に位置づける発想に他ならない。

では、何故このようなナイーヴでかつ欧米中心主義的な進歩史観が、非欧米の日本を始めとする世界中で受け入れられてきたのか。啓蒙主義の伝統に加えて、とどまるところを知らない科学技術の発展が、進歩史観に「実感」と「論拠」を提供したことは間違いない。「文明」と「野蛮」という二極対立の存在が当然視されていたのである。「文明」と「野蛮」は思想・科学技術の「進歩」の度合いを基準にいずれかに分類された。

アメリカの歴史を紐解けば、「文明」と「野蛮」の進歩史観は枚挙にいとまがない。例えば、ジェファーソンは、独立宣言の中で「全ての人間は平等に作られている」と高らかに謳いつつ、その実、彼自身200人弱の黒人奴隷を保有していた。「奴隷は平等に作られた“人間”に含まれないのか?」という、後世人が当然抱く「矛盾の意識」が感じられることなしに、独立宣言は公布された。これこそ欧米人を「人類の中の霊長類」と信じて疑わない進歩史観の為せる業であった。

「マニフェスト・デスティニ」とチェロキー族の悲劇

アメリカにおいて黒人奴隷に並ぶ人種問題であったネイティブ・アメリカンに対する迫害、強制移住の問題も同様に、「文明」と「野蛮」の進歩史観から理解することが可能である。ここでのキーワードは「マニフェスト・デスティニ」(明白な運命)であった。アメリカ人は「マニフェスト・デスティニ」の信仰に従って、ネイティブ・アメリカンを追い払い、西へ西へと侵略した。

合衆国の西進は、カリフォルニアで太平洋に達した後、ハワイ・フィリピンの侵略・植民地化に向かい、さらに極東に出て日本に至る。幕末に日本に来航して日本の運命を一変させたペリーも「マニフェスト・デスティニ」の信徒であった。彼は神聖なる文明の使者として、野蛮なる日本を文明の栄華に浴すべく、恫喝外交を正当化した。

ネイティブ・アメリカンと幕末日本はいずれも「マニフェスト・デスティニ」の被害者であった。共通点はそれだけではない。実は19世紀初頭にチェロキー族が行った一連の開化政策は、明治政府の行った「文明」開化とよく似ている。どちらも攘夷の心情を持ちつつも、あえて相手の懐に飛び込み、相手と同様の制度・技術を取り入れることにより、彼我の対等、独立を図ったのである。

1827年、チェロキー族が西洋的な憲法を制定し、共和国として独立を宣言した事実はあまり知られていない。これに対して、ジョージア州議会は、チェロキー族の居住する土地はジョージア州に帰属し、部族は州より土地を賃借しているにすぎないという、まったく逆の内容の宣言を行った。後世の日本人である我々の眼から見れば、いずれの主張に説得力があるかは一目瞭然といわなければならない。

しかし、当時ジョージア州の裁判所は、「ヨーロッパ諸国は自らが発見した土地に対して独占的な使用権を有するのが判例である」として、チェロキー族の独立を否定した。チェロキー族はその後先祖伝来の豊かな土地を追われ、地味貧しい居留地に強制移住させられた。当時17,000人から成ったチェロキー族は、徒歩での強制移住を経て居留地に到着した時には1万人に満たない数になっていたという。

日本人の歴史観の課題

日本と同じく「文明開化」の道を選択したチェロキー族がたどった運命を思うと万感の思いに耐えない。日本が幕末に植民地になることを免れたのは、極東という地の利、英米仏露を始めとする列強のパワーバランス、日本自身の急速な近代化等、様々な要因が絡み合った結果というより他にない。

我々は今でも人類の「進歩」をナイーヴに信じてはいないだろうか。自由主義史観・マルクス主義史観の対立を超えて、「進歩」の観念を相対化する視点が求められているのである。


by kotakotan | 2008-07-03 08:39 | アメリカの歴史
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