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「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」に見るリアリズム

映画「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」を見た。「父親」はアメリカ側の視点から、「手紙」は日本側の視点から、太平洋戦争中の最激戦地のひとつである硫黄島の戦いを描いている。2つの作品を通じて立体的・多面的に戦争の実像に迫るという製作者の意図はかなりの程度成功を収めているように感じられた。

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「父親たちの星条旗」に見るリアリズム

「父親」は、硫黄島にアメリカ国旗を立てようとする海兵隊員の写真に取材した実話がもとになっている。勝利と愛国の象徴である星条旗を戦場に翻らせた海兵隊員たちは帰国後国民から英雄として大歓迎を受けた。しかし、映画はその栄光の陰に隠された現実とそれにまつわる兵士たちの苦悩を明るみに出す。

彼らは国民の戦意高揚のために国家によって意図的に作られた「英雄」だった。現実と偶像のギャップに「英雄」たちはとまどう。その戸惑いを見透かすように、大統領まで出てきて彼らの行為を称えつつ、返す刀で彼らに戦債広告という任務を与える。プロパガンダは総力戦につきものである。しかし、プロパガンダとはいかに虚偽と作為に満ちたものであるのか。「英雄」たちの人違いをめぐるエピソードは象徴的である。「英雄」を作り出そうという国家にとってその「英雄」が誰なのかはそれほど重要ではなかったのである。

「自分たちはたまたま旗を立てただけだ。本当の英雄は硫黄島で死んでいった戦友たちだ」。彼らの叫びは、死者に対する礼譲でも自己の果たした役割に対する謙遜でもなく、当惑に満ちた本音だったにちがいない。ある兵士(彼は興味深いことにネイティブ・アメリカンであった)は、矛盾と重圧に耐え切れず、自責の念からアルコールに溺れた。ヒロイズム(英雄崇拝)は個人を破壊することすらあるのだ。

戦争は輝かしいものでも、賛美すべきものでもない。ひとたび戦争の舞台裏をのぞけば、個人の尊厳を軽視するおぞましくも浅ましいナショナリズムの姿がそこにある。戦争には英雄などというものは存在しない。英雄を必要とする人々が存在するだけなのだ。そのメッセージは今も戦争を続ける国に痛烈に響く。

「硫黄島からの手紙」に見るリアリズム

アメリカ人にとって第二次世界大戦は正義の戦争である。朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争と後味の悪い戦争を反省することはあっても、第二次世界大戦は別である。さらに悪いことに、当時は黄色人種に対する人種的偏見も今より強かった。日本軍は非合理的・狂信的ファシズムという鬼畜だったのである。

「硫黄島からの手紙」は、そんな「鬼畜」たる日本人にもアメリカ人と同じように「人間」らしい感情があり、彼らも祖国の家族を守るために一生懸命だったという「もう一つの現実」を描いた。映画「パール・ハーバー」のようなステレオタイプな日本人観を植えつけられてきたアメリカ人にとっては、「手紙」は自らの知らない(知りたくない)現実を見せつけるショックな体験であったにちがいない。

「父親」は正義の象徴であったアメリカ軍を現実の地平に引きずり下ろした。他方、「手紙」は不正義・非合理の象徴であった日本軍を現実の地平に引き上げた。硫黄島をはさんで日本軍とアメリカ軍が対峙したように、「父親」と「手紙」は「現実」という一点をはさんだ対極に位置するのである。「硫黄島」はここでは「現実」の別の名である。

「手紙」は60年以上前の太平洋戦争を舞台にしている。しかし、そこには現代に生きるわれわれに対する問いかけがそこには含まれている。例えば、アルカイダのようなテロリストたちも家族思いの血の通った人間なのかもしれないことを想像することができるだろうか。例えば、北朝鮮の将軍様を話題にするとき、知らず知らずのうちステレオタイプな見方をしてはいないだろうか。そんな現代の「硫黄島」を告発する映画は刺激的にすぎようか。
by kotakotan | 2009-04-22 02:56 | 硫黄島からの手紙
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